アロマテラピーの歴史 エジプト~ギリシャ~ローマ帝国時代

アロマテラピーは香りを利用した自然療法

 

「アロマ」という言葉は、とても良く耳にしますよね。

けれど、その意味や効果について理解している人は少ないかもしれないです。

香りの良いオイルをつかったマッサージ・・となんとなく思われているのではないでしょうか?

 

けれど、このアロマテラピーは、感染予防などにとても効果が高いことから、是非、このコロナ禍には日常生活に取り入れていただきたいなと思いますので、今回、アロマについての基本的なことをご紹介しますね。

 

みなさんは、花やハーブの香りをかいで、とても心が安らいだりさわやかな気分になったという経験はありませんか?この心が安らぐ、さわやかな気分になるというのが、アロマの最大の特徴になります。

自然の植物の香りには、心身をいやす効果が実際にあるんです。

 

「アロマテラピー」とは「AROMA=芳香」「therapy=療法」の造語になります

一般的に、植物から抽出した「精油」を使用して行う自然療法になるのですが、アロマテラピーといえば「香りで心をリラックスさせるもの」と考えている人が多いと思いますが、それだけではなく、健康や美容にも様々な効果をもたらしてくれるのです。

 

その中でも、特に自然治癒力(生まれながらに持っている病を治す力)を高める作用があり、私達の健康を維持し、増進するのに、良い影響を与えてくれているんですよ。

 

なので、アロマテラピーは私達の生活を豊かにしてくれる手段の1つとして日常生活に取り入れることは、素晴らしい予防医学になるといえます。

 

アロマセラピーの歴史(古代エジプト~ギリシャ~ローマ帝国時代)

 

現代ほど医療が発展していなかった時代は、植物は重要な健康維持や治療のための手段でした。

植物ははるか昔から世界中で病気の治療や予防、宗教儀式などに使用され、生活に取り入れられてきました。植物には様々な効能があり、植物が治療薬のような役割を果たしてきたのです。

 

そして、植物の香りについても、生活に取り入れられた歴史は長く、ヨーロッパでは民間療法として利用されてきました。

 

現在でもフランスやイギリスなどでは積極的に、医療現場にアロマテラピーが取り入れられ、代替医療(通常の医療の代わりに用いられる医療)としての地位を確立させています。

 

最近では、日本の医療現場でもアロマテラピーが少しずつ普及し認知されてきました。

体のトラブルをその部位だけの問題にせず、心を含めた全体の問題として捉えるアロマテラピーの考え方は「ホリスティック(全体的、包括的)な観点から行う自然医療」として医療現場にも浸透しつつあるのです。

 

まずは、そんなアロマテラピーの歴史をご紹介したいと思います。

 

アロマテラピーが確立するずっと以前から、芳香植物は人間の生活に利用されてきました。

それは数千年以上も続く長い人類史の一部であり、宗教儀式、食品香料、薬、香水、消臭等の用途にわたり、主要な文明を通して普遍的にみられてきました。植物の香りがどのように人間の生活の中に利用されてきたのか、その歴史をひも解いてみたいと思います。

 

香りを神に捧げた古代エジプト時代

 

 

古代から「香りは神からの授かり物」として考えられ、古代エジプトでは、宗教的な儀式や病気の治療に植物の香りが利用されていました。

これらの芳香には、殺菌・防腐作用の目的だけでなく、神の前に出るのに清らかな香りをつけるためだったとも言われています。

 

皆さんも耳にしたことがあるかもしれない乳香(にゅうこう)のフランキンセンスや没薬(もつやく)のミルラなどは、ミイラ作りに利用されたことで知られています。

そのためエジプト人は、芳香を使ったパイオニアとして位置づけられており、彼らはお香、薬マッサージや化粧品としてだけでなく、非常に洗練されたやり方で死者の防腐処理にも利用したのです。

 

この時代、王であるファラオの庭では世界中から集められた実に様々な薬草が栽培されていたそうです。しかしファラオが祈祷や戦い、情交の時に使用するための薬を香油から調合し、香水を調香していたのは、当時の聖職者と医者でした。

 

エジプトの医者は非常に多くの植物の特性に関して詳しい知識を持ったいたことが、紀元前1500年のパピルス書からわかっています。

パピルス書には、発見された中では最古のものである、体臭を消す調合が記されていました。

 

エジプト人にとって個人衛生はとても重要なことであり、香水を使うことは重要で、宗教とも密接に結びついていました。実際にエジプトの神々には、それぞれ個別の香水が割り当てられており、その神々の像に塗られていたりします。

また、公衆衛生を改善するいくつかの処方や、調合は石板に刻まれ、伝え残されており、好まれていたつけ方の1つは、円錐状に固めた練香を頭の上に置き、それが熱でゆっくりと融けて頭と体が香りに包まれているという方法でした。

 

しかし、乳香や没薬はエジプト国内では産出されず、周辺の国との交易によって得られる大変貴重なものでした。

香油もこのころから使用されていて、ツタンカーメン王の墓からは、たくさんの香油のびんと軟膏が見つかっています。その中には未だ香りのする乳香やスパイクナード、キフィの軟膏も入っていたそうです。

 

エジプトでは、魂が地球上のすべての動物を輪廻して再び人間に生まれ変わるために時間がかかると信じられていたため、3000年間ミイラを保存しようと考え、肉の腐敗防止に強い消毒と抗菌作用を持つ香油が防腐処理に使われたのです。

 

 

当時、エジプト人に好まれていた香水の1つが、キフィと呼ばれるもので、香水としての使い方に止まらず大量に使われていました。それは消毒やお香の解毒の用途や、ブルタルコス(ローマ時代のギリシャの著述家)によれば人に安眠をもたらし、不安をやわらげ、明るい夢を見させる精神安定剤的なものでした。

 

キフィにはショウブ(強力な麻酔薬)、カッシア、シナモン、ペパーミント、シトロネラ、ピスタチオ、ジュニパー、アカシア、ヘンナ、サイペルス等23の成分が含まれていました。

 

古代エジプトではヘリオポリス(太陽の町)で、1日3回お香を焚き、太陽神ラーへ祈りがささげられていました。1日の日の出には乳香、正午には投薬、そして日没にはキフィを焚いていたと記録されています。さらに、キフィはエジプト人だけでなく、ギリシャ人とローマ人にも使われていました。

また、クレオパトラが数々の香油を愛用して、その美しさに磨きをかけていたのも有名ですね。

さらに神殿では、木や樹脂を燃やして香りを楽しむ薫香(くんこう)が焚かれ、悪魔祓いなどにも使われていました。

 

香料や香水を表す「Perfume」は、ラテン語の「Per(通して)」「fumum(煙)」に由来する言葉で、「煙を通して」という意味を持っています。

 

植物を治療に用いるようになった古代ギリシャ時代

 

古代ギリシャでは、紀元前7世紀ころから香油や軟膏が使われるようになりました。

ギリシャ人は芳香植物に関する知識の多くを「医療発症の地」と言われるエジプトのナイルの谷から得ていました。

 

紀元前400~500年ころに、ギリシャ人のヘロドトスらがナイルの谷を訪れたことがきっかけであり、ヘロドトスはアッシリアの女性がサイプレスやシダー、フランキンセンスの木に石で傷をつけ、そこに一定の濃度となるよう水を加えていたと記しています。彼女達は、良い香りを漂わせようとして、この水を顔や体に塗りつけていたそうです。

 

その後、ギリシャのコス島に医学学校が設立され、これが「医学の父」と呼ばれる古代ギリシャの医学者ヒポクラテス(紀元前460~377年)を支援したことで知られています。

 

ヒポクラテスは、芳香植物を伝染病の予防や治療をはじめ、お風呂やマッサージにも取り入れることを推奨したことが「ヒポクラテス全集」に記録されています。

 

ヒポクラテスは、この本に、植物やハーブに含まれる有効な成分について記し、エジプト人から得た知識の全てを書き残しています。彼の行う処置にはマッサージやハーブの内服、温泉や物理療法が含まれていました。手術は最後の手段としてのみ行われ、彼は全体缶という観念から体全体を生命体として捉えていたのです。まさしくホリスティックの概念と共通するわけですが、紀元前からこういった概念が存在してたというのは驚きですね。

 

既に、紀元前4世紀頃に、ヒポクラテスは特定の芳香植物を燃やすと伝染病の予防効果があると認めていました。ある時、彼はこの香料の知識を使い、アテネの町を燻蒸して伝染病の流行を防いだのです。

 

また、「植物学の祖」とされるテオプラストス(紀元前370~285年)と言う人は、植物の科学的な分類を試みたそうです。

彼はプラトンアリストテレスの哲学の教え子であり、ギリシャ産と輸入される全ての香料について、それぞれの用途を解説したリストを作成しました。

香油の湿布により体内の働きに作用することができる、というアロマテラピーの基本原理の1つを記したのです。その研究の結果は、「植物誌」という文献にまとめられています。

この本の中には、一年草か多年草かなどの類似点ごとに分類するなど、初めて体系的な植物の観察記録を行ったことが記されています。

 

この頃のギリシャ人は、甘くかぐわしい香りは神聖なものから発せられると信じていいました。古代神話の神々は香油をまとったロープを着て、香りの漂う雲に乗って地上に降り立ったとされており、ギリシャ人は死後に個人は極楽へ行き、そこは香水の川から漂う甘い香りでいつも満たされているのだと信じていたのです。

 

Magallusというギリシャ人は、ミルラやシナモン、桂皮を組み合わて“Megaleion”と呼ばれる香水を作りました。その香水は創傷治療と抗炎症の特性を持つことから、国中に知れ渡ることとなり、ギリシャの兵士たちがその優れた抗菌と創傷治癒成分を含んだ軟膏を戦場に持参したという事実が残っています。

また、もう一人の有名なギリシャ人であるMarestheusという医者は、ある芳香植物が刺激物質を持っていて、バラやフルーティ、スパイシーな香りが、辛い気分を高揚させることを、すでに認識していたそうでうす。

 

さらにアロマの研究が進んだ古代ローマ時代

 

ローマ人は、とってもバラが好きだったようで、古代ローマ時代の有名な皇帝ネロは、その中でもとくに大のバラ好きで知られていました。

バラの香油を体に塗ったり、部屋に香りを満たしたりしたと言われています。

 

この時代、多くのギリシャ人医師がローマで雇われ、彼らの知識を他の先進文明へと伝えていきました。ローマ人は、芳香植物をそれまでのように医療用に使用するだけでなく、衛生を美容用途へも増やしていきました。

 

香油や精油を湯の中に入れたりマッサージ用に使われたり、映画の「テルマエ・ロマエ」のように、公衆浴場で日常的に使われたり・・・と言った具合に、ローマ帝国が巨大になるのに比例して、実に様々な種類の植物やハーブを手に入れていきました。

 

その結果、ローマ人の香水と香油の使い方は過剰だったそうです。彼は、‘ladysmata’ という固形軟膏、‘stymmata’という油、そして‘diapasmata’という粉末の3種類の香水を使っていたことが文献に残っています。

これらは髪、身体、衣類、寝具、そして入浴後のマッサージ用に使われており、クレオパトラが香油を巧みに使ってマーク・アントニーをそそのかしたのは有名な話ですよね。

 

そしてバラ好きの皇帝ネロは、妻の葬儀には、なんと一年間にアラビア半島で製造出来た量よりも多いお香を焚いたそうです。

 

興味深い事に、‘perfume’の語源は “煙を通して薫ずる”を意味するラテン語の‘per fumum’ であり、香を焚く事に関係しています。

 

また、後世に残る書物もこの時代にたくさん発表されたのもこの時代です。

特に有名なのは、皇帝ネロの統治下で軍医として働いていたギリシャ人軍医の医学者ディオスコリデスが著した「マテリア・メディカ(薬物誌)“De Materia Medica” 」全5巻です。

 

この著書は、約600種の植物(薬草)などを薬理機能上から分類しました。

薬理特性と1,000以上の植物薬についても網羅しており、「西洋医学」の基礎を築いたと言われているそうです。

この本は西洋において少なくとも1,200年間もの間標準的な医学書であり続け、ディオスコリデスが“薬草学の父”と呼ばれる所以となりました。

 

「マテリア・メディカ」には多くの写本があるそうで、400点もの色彩植物画が添えられた「ウィーン写本」は、最古(512年ころ)のものとして知られています。

そのほか、博物学者プリニウス(23年ころから79年)の自然誌「博物誌」も有名です。

全37巻におよぶ書であり、自然に関する古代ローマの知識や情報の集大成として有名な著書になります。

 

また、古代ローマにおいてヒポクラテスに次ぐ偉大なギリシャ人医師の医学者ガレノスは、体系的な学問としての医学を築きました。

ガレノスは、ヒポクラテスの自然治癒力の教えを次の通り伝えています。

健康でいるには、芳香浴と香りを漂わせたマッサージを毎日行うこと。そして、医者はあらゆることに精通していなければならないが、とりわけマッサージについては最も知っておかなければならない

ギリシャ医療の根幹は、精神と感情と身体のバランスを基本としています。病気にはこのバランスが崩れ、これらの三要素、すなわち全体観のバランスが元通り健康な状態に戻らないのだと考えられていました。

このヒポクラテスの教えは、今日ではなり立ての全ての医者が中世を誓う「ヒポクラテスの誓い」として有名となっています。

 

ガレノスの医師としてのキャリアは、傷を研究する機会を得ることとなったローマの剣闘士の傷に植物薬を使って治療したことから始まりました。

 

ガレノスに治療を受けた剣闘士に死んだ者はいないと言われ、その功績によって彼はすぐに何人かのローマ皇帝かかりつけの医師に持ち上げられました。香りを感じ取るのは鼻ではなく脳だ、と信じたのはガレノスだったのです。

そしてガレノスは、スキンケアに幅広く使用されるコールドクリームをはじめとして、植物などの自然素材を用いた製剤は「ガレノス製剤」と呼ばれ、その処方は、なんと現在でも受け継がれているんですよ~。

 

この後、時を経てローマ帝国は世界の広大なエリアを支配下におさめていき、それとともに植物の治癒効果の知識も広まっていきました。

イギリス諸島へ香水を伝えたのはローマ人でした。あちこちから種と植物が集められ、フェンネルやパセリ、セージ、ローズマリー、タイムなどそのうちのいくつかは時を経てイギリスで自生するようになりました。

 

しかしこの大帝国の没落とキリスト教の伝搬により、コンスタンティノープルへ移った多くのローマ人医師らが携えていた貴重な医学書は、やがて様々な多言語に翻訳されていくこととなったのです。

 

次回は、中世イスラム世界にも広がって行ったアロマの歴史をご紹介したいと思います。